別れの儀式

思い出が忘却の彼方に行く前に書き留めておきます。子育ての思い出、その1。

別れの儀式

北の空の向こう、日光の男体山が遠く霞む頃、ここH市の保育園にも春がやってくる。今まで霜柱でこちこちに固まっていた園舎に続く坂道は、急にぬかるみ、気を許すとつい足許を取られてしまう。

冬の間、何もなかったかのように見えていた庭は、辛夷、桃、桜と次々に花開き、ぱあっと艶やかな春の装いになる。

園には新しい友達が入り、子ども達は赤ちゃん組のひよこからちゅうりっぷ、たんぽぽ、つくし、ひまわり、そして年長のつき組へと、それぞれひとつずつ進級し、それに伴って新しい部屋に移動する。同じ保育園なのに、今までと違った雰囲気が園舎のあちらこちらに漂い始める。

今まで何気なく見ていたものが、にわかに新鮮さを帯びて目に映り出すのも、この頃だ。犬のペチやミミ、羊の親子も、この一種独特の空気を嗅ぎ取るのであろう、動きが活発となり、吠え声や鳴き声が大きくなる。

「ここにボクがいるんだよ。」「ワタシタチも保育園の一員なのよ。」と、訴えているかのようだ。保母さんの声もこころなしか高い張りのある声に変わっている。いつにも増して、にこやかな笑顔でぼくたち親子を迎えてくれる。

春、こうして保育園の出発の季節が、慌ただしくもうれしく動き始める。


ぼくと子どもの「別れの儀式」が始まったのも、ちょうどその頃だ。それは、わが子がたんぽぽ組からつくし組にあがった四歳の春の朝のことである。

ぼくは毎朝、通勤途中に子どもを保育園に送る。家から車で二十分ほどで園に着くと、急いで着替えをかごに入れ、前日の夜から朝までの家での様子をメモした後、子どもとバイバイをして別れる。

しかし、この時期ばかりはある種の張りつめた空気が、子どもとぼくの間に充ちている。子どもの様子がいつもと違うのである。

車の中ではいつもと同じようにおしゃべりしていたのに、保育園に着いたとたん無口になるのだ。いつものように着替えをかごに入れ、メモをしてなるべく視線を合わせないようにして、

「それじゃ、バイバイ」と、わざと元気よく言う。いつもなら、
「バイバイ」と手を振り返す子どもは、黙ったままである。そのうち、急にぐずりだしたりする。

そこで、保母さんの登場となる。
「あら、どうしたのA。おとうさんはお仕事だからね。」

泣きべそをかいている子どもを尻目に、ぼくは春の靄に白く包まれている駐車場へと急ぐ。自分が何かいけない父親であるかのような思いに駆られながら。

そんなことが二三日続くだろうか、すると今度はちょっと様子が変わってくる。朝、車で保育園に着いたとたん、子どもがしくしくと泣き出すのである。そして、園舎に入ると急に大声を出し、
「おとうさんがいい、おとうさんがいい」とわめいてぼくにまとわりつく。

家で怒られると、
「おとうさんのばか、おとうさんなんか好きくない。」
などと、悪態をつく子どもが。

この時ばかりは、うれしいやらどうしたらいいのやら複雑な思いになる。それでも、ぱっと気持ちを切り替え、子どもの手を振り払って、

「じゃあ、バイバイ。」と、
なるべく感情を入れずにあいさつをして、別れるのである。

「あーあ、こんな小さいときからさみしい思いをさせて。」

何か後ろめたい気持ちに引きずられながら車に向かう。

そんなことがまた、二三日続くだろうか。子どもはあきらめがついたのか、泣かなくなる。そのかわり、縁側のガラス窓の戸口に立って何か神妙な顔つきで、

「お父さん、バイバイ。」
と手を振って、逆にぼくを見送ってくれるのだ。

ぼくは身につまされ、胸がキュと熱くなる。昨日の夜、けんかをして手をかまれたことなどすっかり忘れて、やけにわが子が愛おしくなる。

ガラス窓の前に立って手を振る小さな姿が、いつまでも頭に焼き付き、

「自分は父親なんだ、父親でよかった。」
と、妙に感傷的な気持ちに浸りながら駐車場へと向かう。

そんなことが一週間ほど続くだろうか、一段と日差しも華やいでくる。伸び始めた麦の青葉がことのほかまぶしい。

そしてまた、保育園の朝が来る。いつものように園に着いて、着替えをかごに詰めて、メモをして、そして、そして……、いない、子どもがいない。

バイバイをしようとしても、姿が見えないのである。よく見ると、もう向こうの部屋で、笑いながら友達と興じている。ぼくのことなど、すっかり眼中にないのである。

「ああ、これでいいんだ。」と、思いつつもどこかさみしい気もする。声をかけずに車に戻る。



春の移ろいは早い。今では桜の花びらは散り、春風に花のしべがあちこちにあてどもなく運ばれている。

丸い園庭のほぼ中心に立っている桜の木が、すっかり葉桜の着物になる頃、小石を投げた池面の波紋が自然と消えてなくなるように、ぼくと子どもの「別れの儀式」も、いつの間にか終わりになる。

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