縄文、御所野遺跡

 歴史の渦巻きを遡るように吊り橋の回廊は、大きくカーブを描いていました。此岸と彼岸を繋ぐ橋。あの世とこの世の架け橋。今の時空から大昔の時空へと、ひと息に飛び移る橋。橋は不思議に満ちています。
 誰もいない静まりかえった吊り橋の回廊を歩いていると、体の感覚が研ぎ澄まされていく感じがします。原初の感覚が蘇ってくるのでしょうか。
 回廊の窓に時折映る風景、光速の宇宙船に乗って外を眺めているようでもあります。それでいて窓の外の景色がゆったりと移動しています。今はすでに昔のような、自分は自分でないような不思議な気持ちで回廊を渡ります。
 渡った先は、今から4、5千年前の縄文の村がのびやかに開けていました。

 初冬の日、岩手県の一戸にある御所野遺跡に行ってきました。もう、日が傾きかけていたので人影はなく、一人縄文時代に取り残されたような錯覚を覚えました。鉄塔や電線や電波塔やら、現代の建造物が視界になく、風景が気持ちいいです。森と林と草地と竪穴住居がそれぞれの空間に居心地よく収まっていました。どこか懐かしく、夢の中でしょうか、かつて住んだことがあるのではないか、と思われる風景が広がっていました。

 向こうから人影が近づいてきました。縄文人か、いやそんなはずはありません。近所のご夫婦のようです。散歩を楽しんでいました。博物館は有料ですが、遺跡のあるところは公園になっていて誰でも自由に入れます。いつでも無料で入れる、素晴らしいです。

 柿本人麻呂の生誕、終焉の地、益田市にある島根県立万葉公園に行ったときもそうでした。朝早く、キャンプ場のテントで目覚めると、公園の散策路を町民が散歩やジョギングをして楽しんでいました。無料だから毎日利用できる、それが町民の健康作りに大いに貢献していると思うのです。
 国営の名前が付いている海浜公園や森林公園の中には、高い駐車料金と入場料を取るところがありますが、無料にすべきでしょう。体と心の健康に公園の果たす役割は大きいのですから、国民がいつでも自由に入れる、国営公園であってほしいと思います。

 御所野遺跡は国史跡に指定されましたが、家主が素晴らしいと思ったのは、吊り橋や風景や無料の公園だけではありません。竪穴住居の屋根にもありました。これまでの縄文の歴史を塗り替え、常識を覆した発見がありました。
 今まで縄文の竪穴住居の屋根材は萱や木の皮が使われていたと考えられていましたが、御所野はそうではありませんでした。土屋根だったのです。萱葺きなどの屋根の上に土を被せたのです。おそらく寒さと風対策だったと、考えられています。
 縄文晩期頃から再び、日本列島は寒冷化が進みます。寒さに対する縄文人の知恵、それが夏涼しく冬暖かい土屋根を生み出したと思います。炭化材と焼けた土を丹念に調べ、全国ではじめて土屋根住居であることを実証しました。おそらく三内丸山遺跡も北海道の縄文遺跡も土屋根住居の可能性が大と言えるのではないでしょうか。

 もう一つのすばらしいところは、御所野遺跡は町民が支えているところです。清掃や植栽はもちろん、ガイドや縄文まつり、縄文体験、縄文キャンプなど縄文という文字を冠して多くの催しを町民と共に楽しんでいます。子どもを巻き込んで楽しみながら御所野遺跡を守っています。
 これからも町民と共に歩む、「観光地」化されない未来型の遺跡保存を目指していってほしいと思っています。

 できるなら、よけいな建造物を立てないで、遺跡の景観を大事にしていってほしい、東に広がる森をもっともっと増やしてほしい、縄文人と馬淵川との関わりも究明していってほしい、と願っています。

 それにしても農村工業団地として造成されなくて本当に良かったです。危機一髪のところで難を免れました。当時、開発優先の世の中で、英断を下した人たち、町長や町民に感謝です。

 縄文時代を思うとき、どうしても考えることがあります。自分の先祖のことです。家主の先祖も、縄文時代にこの日本のどこかでたくましく生きていたに違いありません。
 飢えや病気に耐え、自然の恵みや神に感謝し、祭りを楽しみ、子育てに勤しんでいた、森の人よ。名もなく貧しくも、たくましく生きていた森の人よ。

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