汚れちまった悲しみに

 中原中也の詩の一節が頭をよぎります。「汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れっちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる」「汚れっちまった悲しみに いたいたしくも怖気(おじけ)づき 汚れっちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる……」

 地震津波に原発事故、多くのいのちが奪われ、空は大地は海は汚れ、家主の心はうちひしがれ、日々ざわついています。心の置き場をなくし「それでも、未来を希望を」などと言えるものではなく、今年の春は花を見ても心底、美しいと思えず、心の隅に引っかかりを覚える日々が続いています。健気に咲いている花たちにごめんなさいと言わなければなりません。みなさんはどうでしょうか。

 この心の引っかかりはしばらく続きそうですし、おいそれと引き上げてはいけない気がします。鬱々たる日々を引き受け、今は自然の畏怖と人間の傲慢について沈思黙考をするときだと、家主は思います。この悲しみを受けとめない限り、前には進めません。

 それにしても、気になるのは福島原発の今後です。収束の目途が見えてきません。安全は絵に描いた餅で、本当は危険きわまりないものだったわけです。情報は鵜呑みにできません。国民を欺いてまでも原発を作りたかったのは、そこに多くの利権がからみついていたからなのでしょうか。

 だからといって人間の手に負えないものを作ってはいけません。菅政権の対応が批判されていますが、事故が起こって責任の取りようもないものを勝手に進めてきた歴代の政府と電力会社は、どのように国民に責任を取るのでしょうか。謝って済むものではなく、だんまりをきめこむとしたらもってのほかです。

 広瀬隆氏の原発の本を読んでみました。熱エネルギーの三分の一しか電気エネルギーに交換できないで、常時ヒロシマの原爆100個分の膨大な熱を海に放失している原発が、どうして地球温暖化の切り札になるのでしょうか。クリーンで環境に優しいなんて真っ赤な嘘で、これほど空を大地を海を汚し、人心を痛めつけるものはないことが今回の事故でも明白となったと家主は思っています。

 大陸プレートの境界に日本列島が立地するという地理的条件の中で、原発事故は決して偶然ではなく、必然であることもわかってきました。

 戦後しばらく続いた地震休止期は終わり、日本は地震活動期に入りました。大陸プレートの境界付近や中央構造線とフォサマグナ沿いに地震や火山噴火が頻発していて、今後も大地震や噴火が江戸時代のようにかなりの確率で起こりうることも知りました。

 もう原発はご免蒙りたい。引き払ってもらいましょう。時間をかけてでもすべての原発を廃炉にして新しいエネルギーに変えていく必要がある、そう家主は思います。賢明な日本人なら、原発なしの新しいエネルギーの方策はいくらでも考えつくのではないでしょうか。

 野山に遊び、川に親しみ、海に泳ぎ、大地や海の恵みを享受する、そんな当たり前の日常が戻ってきてほしいと切に願っています。

 今日も、かつて三陸海岸を旅したときの写真を載せます。

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