道を開く

ゴミだらけの庭を、藪に覆われていた庭を、4年ほどかけて、少しずつ少しずつゴミを拾い、藪を整理しきれいにしてきました。時間のかかる地道な仕事です。

美しいものの蔭にはこの地道な作業が欠かせません。庭を見て近所のみなさんが、きれいになったね、とほめてくれるのですが、そこまで辿り着くのに、目に見えない、誰にもほめられない、汚れて時間のかかる地味な仕事がほんとうにたくさんありました。

やることの多さに時には呆然とし、時には嫌になり、時にはなぜ、わざわざこんなことをやっているのだろうと後悔の念が湧き、でも、続けてこられました。それは、この家がもともと持っている風格とか品とか、そういう魅力があったからでしょう。きれいになったらこの家は大したものだ、という見通しがあったからでしょう。

時間はかかりましたし、まだ十分ではありませんが、一応きれいになったので、これからの庭作りは受動から能動に変わります。そこで、家主は三つの道を切り開きました。

ひとつは、道兼駐車場の縄文のうずまき大道です。家の南側でかつてはゴミの上に、背丈以上に夏草が生い茂っていた草藪です。ゴミを拾い片付け、やぶを払い大きく道を開きました。

もう一つは、家の西側の縄文のうずまき小道です。この道は、なぜか落ち着きます。季節によってタチツボスミレやアマドコロやホタルブクロやヒヨドリバナの花が、ガマズミやイチイや桑やウワズミザクラの実が、出迎えてくれるからでしょうか。

三つ目が川沿いの竹林の中の道で、桂と板屋楓の巨木を結ぶ、縄文のうずまき新道です。巨木の神が鎮座し見守っています。川の、時には優しいささやきが、時には激しい声明(しょうみょう)が、聞こえてくる道です。

こうして家主は三つの道を切り開いたのですが、同時に新しい生活、新しい互恵社会もこの家をよりどころにして切り開いていけたらいいなあ、と今は夢見ているのです。具体的な形になったら、また、みなさんにお知らせする時が来るかも知れません。

ところでみなさん、道とうい漢字にどうして首という漢字が含まれているのか、ご存じでしょうか。
道という漢字から古代中国の、つまりは古代人の世界観が見えてくるのです。

松岡正剛の「白川静」の中で、こう書かれています。「それでも道は正体不明の〝さばへなす邪霊〟が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するところであって、由々しいことは頻繁におこりうる。そこで、氏族の長や従者たちはあえて異族の首を掲げて行進したのです。恐ろしくも「道」に首がついているのはそのせいなのです。」

白川静も松岡正剛も、知の巨人です。経済だけの日本が目立つ中で、こういう日本人がいたこと、現にいることに家主は尊敬し、そこに希望をも見出しています。

話を元に戻しましょう。そうなんです。これから歩む道は、今までにない新しい道ゆえに、由々しきことはつきものです。決して平坦とか、順風満帆というわけにはいかないと思います。

いろいろなことがあると思いますが、ゆっくり歩んでいきたいと思います。

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